「ステイ・ハングリー ステイ・フーリッシュ」
15年前、スティーブ・ジョブスがスタンフォード大学の卒業式でスピーチを締めくくった、この言葉はとても有名です。
それは実は、「ホールアースカタログ」という雑誌から持ってきた言葉で、この雑誌は60年代後半のアメリカで、スチュアート・ブランドという一人の青年のアイデアから生まれたものでした。
当時のアメリカは、泥沼化するベトナム戦争、人種差別廃絶に取り組んでいたケネディ大統領の暗殺など、多くの人がボロボロになり、重苦しいニュースが次から次へと流れ込んできた時代です。
そうした日々の中で、サンフランシスコの丘の上から街並みを見下ろしていたスチュアート・ブランドは、次のように閃きました。
「ぼくらが暮らす地球は、丸い一つの星。けれど地球は平らでどこまでも続いているように思われている。その思い違いから戦争などの過ちが生まれるのではないか?」
今では考えられないことですが、宇宙から見た丸い地球の姿はその頃、政府や宇宙事業の関係者以外に誰も見たことのないものだったのです。
そこでスチュアートが思いついたのは、NASAに宇宙から見た地球の写真をリクエストするため、政治家や宇宙事業関係者に「缶バッジ」を送ることでした
「Why haven’t we seen a photograph of the whole Earth yet?」(どうしてぼくらは地球全体の写真を見たことがないのか?)
白地に黒い文字でメッセージの書かれた缶バッジは、宇宙事業をリードする関係各所に送られたほか、スチュアートがカフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学などの大学に持ち込むと、売れに売れて瞬く間に賛同者を増やしました。
ついにスチュアートの元にはNASAの人工衛星から撮影された地球全体のカラー写真が届き、1968年、丸い地球の写真を表紙にした雑誌「ホールアースカタログ」が刊行されました。
これを“バイブル”と呼んだスティーブ・ジョブズを含め、若者の心を動かし、平和な時代へと流れを変えるムーブメントが生まれたのは「一人の若者の缶バッジから」と言っても過言ではないのかもしれません。
そう考えると、一人の人から多くの人にメッセージが共有されるツールとして用いられてきた缶バッジの使われ方は、現代のSNSと重なるところがあります。
缶バッジに書かれるメッセージの内容は、SNSのように書き手の感性を軸にした民主的なもの。「ツイッターは俳句に似ている」と言われたりしますが、缶バッジにおいても載せられるコンテンツ量に制限があるため、自分の考えがよりよく伝わるように言葉が編集されてきました。
前出のスチュアートも缶バッジのメッセージには、主語をどうするか、地球全体の “全体” を表す単語など、一つ一つの言葉を厳選したそうです。
メッセージ・缶バッジで学生たちが動き出した1966年、TIME誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」には例年のような著名人ではなく、当時アメリカ総人口の半分を占めていた『25才以下の人々(Twenty-Five and Under)』が選ばれました。
時代の革命家とされた『25才以下の人々』に自分も入っていたスティーブ・ジョブズはその後もアップルでイノベーションを起こし続けます。それはジョブズが当時の心を持ち続けていたことを意味しているのかもしれません。
事実、ジョブズが大事にしていたもう一つのモットー「シンク・グローバリー アクト・ローカリー」も、雑誌「ホールアースカタログ」に唱えられていたコンセプトでした。
過去にいい思い出がある人は、未来にもいいことがあると思える、そして、そのいい思い出をつくる方法とは、いい思い出を何度も思い出すことである、といいます。
缶バッジやそこに書かれたメッセージは、いい思い出を何度も何度も繰り返し思い出させるモノとして、思うよりも長く人の心を支えるツールになりうるのかもしれません
SNSが登場する前から、若者に与える影響力が大きかったのは、既成メディアに掲載されるメッセージよりも、同じような気持ちを抱えた同世代からのメッセージだったことは確かなようです。
今、コロナによって世界中でユニークなメッセージが缶バッジに刻まれています。
コロナの前にはもう引き返せないという社会の変革の時に、これからの自分を支え続けるようなメッセージを缶バッジに載せるとしたら、みなさんはどんな言葉を選びますか?