ビデオや音楽、あるいはゲームなど、サブスクリプションサービスはますます普及し、私たちがデジタルコンテンツに消費する時間は年々膨らみ続けています。
昨年アメリカで行われた調査では、18歳以上のユーザーがデジタルメディアに費やす時間は1日あたり、およそ8時間という結果になったそうです。そのうち、スマートフォン等のモバイル機器の1日あたりの平均利用時間は4時間23分に上ります。
「何か新しいことを…」と、もはや強迫観念にも近い勢いで私たちは情報のアップデートを習慣化していますが、そうしたデジタルコンテンツに偏った暮らしの中で、より身体的に刺激を求めるような動きが消費者の間で起こっています。
例えば、イギリスでは2020年、レコードの売上高が1989年以来最大となる、8650万ポンド(約132億円)に達しました。
コロナ禍の影響でライブミュージックを聴く機会が減ってしまったことが主な理由として挙げられていますが、このレコード復興の立役者となったのはなんと、デジタルミュージックを聴いて育った20代の人々だといいます。
ストリーミングが当たり前であるが故に、好きなアーティストのものに触れたい、所有したいという気持ちが満たされていなかった世代のユーザーが持つ潜在意識を、「現物」としてのレコードが、引き出すきっかけになったのかもしれません。
こういった傾向からも、デジタル化の進む暮らしの中で、より身体的な情報を補完してくれるものが価値を取り戻し、大きな価値を生むようになっていくとみられています。
デジタルのイメージにおいても、スタンプやアイコン、あるいはキャラクターなどの人気が増えるほどに、缶バッジのような触れることができて、身につけることのできるアイテムがもっと楽しまれる時代になっていくのではないかという気配を感じます。
地域の人々の日常に存在する、キャラクター缶バッジ
例えば、昨年はコロナ禍にもかかわらず、キャラクターの缶バッジが、愛知県一宮市と北海道札幌市のまち全体を巻き込んだコラボレーション企画に用いられ、成功を収めました。
缶バッジを企画したのは、愛知県一宮市で「一宮七夕まつり」などの地域の目玉イベントを支えてきた地元密着型の企業です。
一宮出身の画家である三岸節子さんの美術館「三岸節子記念美術館」のメインキャラクター「せっちゃん」をデザインして地域を盛り上げてきたのもこちらの企業です。
「せっちゃん」グッズとしての缶バッジは美術館にガチャガチャを設置して販売され、子どもたちを中心にまちの人々に愛されてきました。
一方、北海道の札幌では「おばけのマ〜ル」という、北海道の雪まつりや札幌市円山動物園など、現実に子どもたちが訪れることのできるような場所を題材にした絵本シリーズが生まれ、北海道の子どもたちに人気のキャラクターとなっています。
実は、札幌には節子さんの夫である画家の三岸好太郎さんの出身地として「三岸好太郎美術館」が建てられており、この美術館も絵本シリーズ「おばけのマ〜ル」の題材になりました。
その縁で「おばけのマ〜ル」に一宮市を舞台とした絵本「おばけのマ〜ルとモーニングのあとで」が誕生し、昨年、一宮市の三岸節子記念美術館でもその原画展を開催することになったのです。
もともと人気だった「せっちゃん」の缶バッジの延長で「おばけのマ〜ル」をイメージした缶バッジも製作され、札幌と一宮の2都市の喫茶店で、特別モーニングメニューに缶バッジをつけてサービスするキャンペーンがスタートしました。
名古屋の喫茶店といえばモーニングが有名ですが、中でも評判の高い喫茶店がひしめく一宮市でこの企画は大変な人気となり、配布された缶バッジの数は1ヶ月半で1800個にもなったそうです。
そして、原画展が終了した今も、缶バッジのキャンペーンは期間を延長して運営されています。
ユーザーは、自分と同じ世界を生きるキャラクターを見たい
デジタルの方にバランスの偏った人々の日常において、缶バッジやモーニングのような、身体的に好きなキャラクターを身近に感じられるものが反響を呼んだり、楽しまれるようになりつつあります。
実際、昨今のエンタメニュースでは、YouTubeで人気のVTuberのコラボ企画として、飲食店や銭湯など、よりリアルな場所が注目されているような風潮も見られます。
例えば、10代に人気のVTuberが河合塾とコラボして英語のスペシャルレッスンを行ったり、知育の分野で人気のキッズ向けVTuberが熊本ご当地キャラクターのくまモンと熊本を散歩したり、VTuberが人々のリアルな日常の中にタイアップ企画で登場する場面が増えています。
「日本でゴルフが流行り始めたのは日本中から草原が消えていった時代だった」という話があるように、身体的な情報が不足すればそれを補おうと反動が起きるのも、自然なことなのかもしれません。
というのも、私たちは今デジタル化社会で、非常に刺激にあふれた生活を送っているように思い込んでいますが、実のところは逆なのではないかという意見もあります。
森に入って動物と同じように暮らした研究でイグノーベル賞生物学賞を受賞したチャールズ・フォスター氏は、その著作で「私たちにとってごく『ふつうの』視界は、ほんとうはまったくふつうではなく、圧倒的に退屈だ」と気づいたと述べていました。
森に入ると、木々や動物、虫など、さまざまな声が聞こえます。その気配に気を配り、たくさんの情報を理解しようとするととても疲れるのだそうで、彼も森に生きる他の哺乳動物同様、森の中では長い時間眠る必要があったといいます。
人間は動物ほどに感覚が優れていないと思われがちですが、実は私たちの聴力は幼児期には2万ヘルツを超える周波数の音でも聞こえ、それはコガモや多くの種の魚を大きく上回っており、嗅覚においても退化しているわけではないのだそうです。
こうした身体的な感覚が、無味無臭のスクリーンの中だけで満たされるとは考えづらいため、スクリーンの内側が盛り上がるほど不満が溜まり、スクリーンの外側の触れられる世界への需要が高まるのも不思議ではありません。
今はオール電化の時代にあって、家を建てる人の間で流行っている薪ストーブも19世紀以前の産物ですが、缶バッジもレコードも、これから情報がデジタルに偏れば偏るほどに、人々の感覚を補完する意味で愛用されるようになっていくのではないでしょうか。
2023年には、18歳以上のユーザーがモバイル機器を利用する時間は1日平均4時間35分に達する見込みで、身体的な情報と頭の中の情報のバランスが完全に頭の方に寄っているような生活はさらに進展します。
その身体的な渇きがますます出現するこれから先、缶バッジをはじめとするリアルなものも相乗的に、楽しまれる世界が待っているようです。
参考書籍:
■ 山口 周「思考のコンパス ノーマルなき世界を生きるヒント」PHP研究所、2021年
■ チャールズ・フォスター「動物になって生きてみた」河出書房新社、2017年