冷蔵庫、電子レンジ、そして車など、企業はこれまで、顧客の生活に「役に立つ」ものをつくることを求められてきました。
手で洗濯物を洗っていた時代から、乾燥まで自動でやってくれる洗濯機が生まれ、移動手段も自転車やバイクから、より多くの人を乗せて、より遠くへ移動できる車が開発されていきます。
しかし、解決すべき問題が山ほどあった時代は、「役に立つ」ものをつくればどんどん売れていきましたが、世の中が成熟し、解決すべき問題のほとんどが解決されてしまった現在においては、「役に立つ」ものよりも、「意味のある」ものを人々は意識的に求めているのではないでしょうか。
例えば、テレビのリモコンを見ると、ものすごい数のボタンがついていますが、実際に使用しているボタンは半分もないことでしょう。
スマートフォンにしても、全ての機能を理解して使用している人はほとんどおらず、世の中の製品の多くはオーバースペックになってしまっています。
それに対し、人々は働く意味、生きる意味、そして、遊ぶ意味など、先行きが不透明な時代の中で、人々は様々な意味を失っている。
自分がなぜ生きているか分からない、誰か生きる意味を教えてほしいなど、先行きが不透明な時代になればなるほど、人々は様々な「意味」を切実に求めるようになっていくのでしょう。
著作家の山口周さんは、これからの時代は、モノをつくるオールドタイプは価値を失い、意味を与えるニュータイプが活躍する時代なのだと述べています。
缶バッジは、何かの「役に立つ」ものではありません。しかし、「意味を与える」という視点で考えると、非常に効果的なツールになっていくのではないでしょうか?
例えば、箱根登山鉄道は各駅で、それぞれの異なった電車のモデルがデザインされた缶バッジの販売をスタートさせました。
また、不二家は看板キャラクターのペコちゃんの刺繡缶バッジを販売し、そのデザイン性の高さからSNSで大きな話題となっています。
多くの人がデジタルで本を読むようになった今、紙の本に書かれた著者の直筆のサインは、直筆と読者を結びつける意味付けの象徴のようなものになりました。
これと同じように、缶バッジもただ「不二家のケーキを買った」、ただ「移動のために電車に乗った」という消費活動ではなく、缶バッジを通じて商品やサービスに感情がタグ付けされ、お客さんに新しい意味を与えるものになっていくのです。
缶バッジを買って身につけるという行為は、消費や行動に新しい意味を与える一つの儀式のようなものなのかもしれません。
人生に不足している「生きる意味」を缶バッジで埋めてあげる。
日本企業は過去、世の中のニーズを先取りし、「役に立つ」ものをつくって、世界にどんどん輸出することで、経済を発展させていきました。
しかし、商品やサービスを通じて、「意味を与える」という事に関しては、かなり苦戦していると言えます。
例えば、トヨタの車は「役に立つ」ものとしては、世界トップレベルですが、「意味を与える」ものとしては、なかなか存在意義を見出せません。
それに対し、ポルシェ、BMW、そして、ベンツなどの車は、役に立つ車である以上に、乗っている人に様々な意味を与えてくれる車なのだと言えます。
ドトール・コーヒーやオロナミンCも役に立つものであるのに対し、スターバックスやレッドブルは、役に立つという領域を超えて、様々な意味を与えてくれると言えるでしょう。
ポルシェやスターバックスなどの商品は、値段がかなり高いですが、商品を通じて提供できる意味を本気で考え出すことができれば、自然と商品の価格というものは消滅していきます。
家電製品を扱う日本企業のバルミューダは、安いトースターであれば2000円前後で買えるのに対し、その十倍近い値段でトースターを販売しています。
バルミューダのHPを見ると、創業者の寺尾玄さんが、17歳の時に高校を中退して、地中海沿岸を約一年間、一人で旅をし、その時に出会ったパンの味が忘れられず、その味を再現するために、トースターをつくったというストーリーが語られている。
2万円のトースターが、2千円のトースターよりも10倍美味しく焼けるのかは分かりませんが、高いお金を払ってバルミューダの製品を買う人というのは、製品に対してというよりも、製品が与えてくれる「意味」に対して、お金を払っているのでしょう。
静岡県湖西市は、徳川家康の関わりを広く知ってもらおうと、市内の名所を巡るスタンプラリーを開催し、景品に缶バッジをプレゼントする企画を始めました。
ただ名所を巡るだけでは、長期間の思い出としては残りにくいですが、缶バッジを通じて、物理的なモノに感情がタグ付けされれば、そこには新しい意味が生まれきます。
そして、製品やサービスは、すぐにコピー商品が出てきますが、それぞれの人の感情に紐づいている「意味」は、そう簡単にはコピーできないのです。
どんなに豊かな人でも、生きる意味を見出せなければ、人生は寂しいものになってしまうことでしょう。
まだ、年齢が若い頃は、多くの人が生きる意味を持っていますが、年齢を重ねるにつれて、ただ単に生きる意義だけが残る人生になってしまう。
もしかすると、多くの人は、出世、給料、会社の業績にコミットすることで、かろうじて、生きる意義を維持しているのかもしれません。
本当の意味で、失われた生きる意味を取り戻さなければ、幸せな人生は送れません。
成熟経済では、製品が役に立つかではなく、自社の製品は何か意味を生み出しているかを問わなければならないのでしょう。
もしかすると、将来は、熾烈な価格競争を生き残った「役に立つ」ものと、「意味」を与えて商品の単価を上げる企業の二極化が進んでいくのかもしれません。
特に缶バッジは、体験や思い出に意味を与えるという事に関しては非常に相性が良いツールの一つです。
きっと、人々に不足しているものを、缶バッジで埋めてあげる必要があるのでしょう。