人類史上、物事を最も深く考えた哲学者のソクラテスは、生涯にわたって自身の書籍を一冊も残しませんでした。

ソクラテスは、知識とは「対話」によって習得するものだと考えていて、文字にされてしまった言葉は既に「死んだ会話」であると考えていたのです。

会話による生きている言葉は、リズム、抑揚、そして、その場での反論が入り混じりっているのに対し、書籍ではこういったものが一切存在しないため、本当の意味での知識としての血肉にならないと考えていました。

「書を捨てよ、町へ出よう」という有名な言葉がありますが、書籍やインターネット上にある情報は、誰かが体験した二次情報に過ぎず、それをただ一方的に受け止めているだけでは、知識は身に付いていかないのです。

よく自身の様々な意見や主張がデザインされた缶バッジをバックなどにつけている人たちがいますが、デザインが工夫された缶バッジは、街中で見知らぬ人と様々な会話を生み出すことができます。

世の中の様々な問題に対して理解を深めるためには、書籍やインターネット上の動画からの情報では不十分で、同じ意見、異なった意見を持った人たちとの対話が不可欠なのだと言えるでしょう。

海外では、電車や飛行機で隣に座った人と軽い雑談をしたりすることは、ごく一般的なことですが、日本では、公共の場で他人に話しかけることはあまり多くありません。

缶バッジをオリジナルでデザインし、他人と対話したいトピックに興味があるという意思表示をしておけば、公共の場で他人に話しかけるキッカケは大きく広がっていくはずです。

「書を捨てよ、町へ出よう」は、現代風に言えば、「書を捨て、缶バッジを付けて、街に出よう」と言い換えるべきなのかもしれません。

コミュニケーションの「量」は増えても、コミュニケーションの「質」は上がっていない。


いつの時代も、活発な街というのは対話に溢れているものです。

日本の東京、大阪、名古屋などの街を歩く人たちを見ていると、大抵の人は、常にスマホに目をやり、まるで現実世界とは別のパラレルワールドを生きているようにも見えます。

メール、チャット、そして、ZOOMなど、インターネットの普及と同時にコミュニケーションの量は圧倒的に増えました。

しかし、コミュニケーションの「量」が増えたからといって、コミュニュケーションの「質」が上がったわけではありません。

むしろ、オンライン上での無機質なコミュニケーションばかりが増えたことで、魂と魂がぶつかり合う本当の対話をする機会はどんどん減っていっています。

SNSの世界では、文字→画像→動画→ライブと、より情報量が多いコンテンツへと進化していますが、どれだけテクノロジーが進化しようと、ソクラテスが述べたリアルな「対話」の足元にも及ばないことでしょう。

スターバックス・インターナショナルの元社長であったハワード・ビーハーは「メモを送るのをやめ、一緒にコーヒーを飲みに行こう」と言いました。

普通、何か物を考えている時というのは、一人で難しい顔をしているものです。ところが、なぜか不思議と誰かと対話している時というのは笑っていることが多いものです。

仕事にしても、仕事の質というものは、どれだけ物事を深く考えているかということであり、そこに深い対話が存在しなければ、決して深い思考には辿り着けないことでしょう。

教育にしても、一方的に先生の話を聞くのではなく、しっかりと対話をしなければ、生きた知識は身に付きません。

そもそも、日本の教育は、問題を早急に解決する能力こそが重視され、余分な質問などをする暇があったらとにかく答えを覚えろという形で勧められてきました。

恐らく、現在は仕事、教育、そして、日常生活において、対話をしなければ、物事を前に進められないところまで来てしまっているのでしょう。

何らかのメッセージ性のある缶バッジをどこかに身につけることで、対話のキッカケをつくることができます。

商店街の活性化、観光キャンペーンなど、街に活気を取り戻すための取り組みは様々ですが、もしかすると対話のキッカケをつくる缶バッジこそが、街を活性化させるための救世主なのかもしれません。

偶然を受け入れないのであれば、人生の可能性の8割を排除しているのと同じ。


人生とは、自分の力で様々な道を切り開いているように見えて、様々な偶然の要素を受け入れながら生きています。

スタンフォード大学の教授で、キャリア論の研究で有名なジョン・D・クランボルツ教授の研究によれば、人生の8割は計画した通りにはいかないのだと言う。

そういった意味では、自分の力で人生をコントロールできるのは、2割程度なのだと言うことになりますが、大抵、人生に大きな変化がある時というのは、何か新しい出会いがあった時なのだろう。

普段の日常生活の中にも、カフェで隣に座った人、スーパーのレジで同じ列になった人、毎回ジムで顔を合わせる人など、キッカケさえ上手くつくれれば、様々な新しい出会いの可能性に溢れています。

カフェで隣に座った人が、将来の伴侶かもしれないし、毎朝ジムで顔を合わせてはいるけど、一度も話すキッカケを作れていない人こそが、未来のビジネスパートナーなのかもしれません。

日々の偶然の出会いを信じないということは、人生の8割から生まれる偶然の可能性を自ら排除しているのだとも言えます。

どれだけたくさんの本を読み、ネットニュースを日々チェックしていたとしても、そこに生きた対話がなければ、生きた知識や人生の新しい可能性を導き出すことはできません。

缶バッジと一緒に街に出ることで、これまでは素通りしていた偶然の出会いを引き寄せられるかもしれないのです。