アメリカやヨーロッパ諸国を始めとするアート先進国では、来館者に「なぜ来たのか?」とアンケートをとると、もっとも多いのは「ぶらりと立ち寄った」という回答で、気軽に美術館を利用する人が多い傾向にあります。

それとは対照的に日本での美術館は、特別な展覧会が開催される際に人々が行列をなす「敷居の高い場所」といったイメージがあり、日常生活の延長線上に美術館があるという感覚はほとんどありません。

そうした状況の中、東京都世田谷区に位置する世田谷美術館は、世田谷区の小学生全員を招待したり、大人向けの美術講座を開催するなどして、地域住民の「生活の一部としての美術館」を目指しています。

そんな世田谷美術館では、美術館運営を行う上で缶バッジを活用しているのだそうで、今回は、同美術館学芸部の東谷千恵子さんにお話を伺いました。



世田谷美術館で使用されている缶バッジマシーンと缶バッジ。同美術館では、あまり見かけない長方形型の缶バッジも活用している。

世田谷美術館が開館したのは1986年のバブル期のことです。その時代は、景気対策として国の公共事業という名目で日本全国に美術館が建設され、まさに美術館連立時代の真っ最中に世田谷美術館はこの地に作られました。

バブル期に多くの美術館が建設された中、世田谷美術館が他の美術館と大きく違ったのは、「地域住民の参加」と「教育普及」を目的に作られたことだと東谷さんは話します。



珍しい美術品を見せるだけではなく、地元住民たちの日常生活の延長線上にある美術館を目指す世田谷美術館

この黄色い箱は缶バッジマシーンを収めて持ち運びするために手作りされた。これはなんと、世田谷美術館の美術館ボランティアの方が自作したのだそうで、地域密着型である同美術館の魅力が垣間見れる。

「それまでは多くの美術館が作品を展示することだけを目的に作られていたため、『地域住民の参加』や『教育普及』という概念自体がそもそも存在しませんでした。しかし美術館を一部の美術マニアのものにしたくなかったという考えがあった当館では、開館以来、最初から地域のための美術館を目指し、誰でも気軽に参加できる場所をつくってきたのです」

「その一環として、世田谷区すべての小学生を当美術館に招待することにしました。毎年、世田谷区立の小学校に通う4年生全員が当館を訪れ、これまでで累計20万人近くの子ども達が足を運びました。単純計算すれば、世田谷区に住んでいる4人に1人が当館を訪れたことになりますね」

「それに加えて、当館には『美術大学』という大人向けのコースがあり、週に2日間の日程で1年間を通して実技と講義を開催しています。コースを卒業すると、美術館ボランティアとして当館で活動する方もいらっしゃいます。ボランティアの方には缶バッジを始めとしたワークショップの企画・運営を一緒にやっていただいています」



美術館ボランティアの方達がディスカッションをしながら、ワークショップの準備をしている様子

右上にあるカルタ。よく見ると、これは長方形型の缶バッジで作られていて、もちろんこれらは美術館ボランティアの方々の手作りだ。

世田谷美術館がこうした地域密着型の運営方式をとっているのは、美術館の存在をより身近なものにするためですが、そもそも美術館の敷居が高いのは、美術館が自ら近寄りがたいイメージを作り出しているからだと東谷さんは話します。

「日本の美術館の歴史は浅く、その歴史は半世紀程度しかないのですが、美術館が定着する過程において、『大衆娯楽と一緒にしてほしくない』という意識が強く働いて、高尚なイメージを自ら作ってしまったんです。また、お客様も、美術館が高尚な場所であってほしい、と思う方も多かったのだと思います」



子ども達の遊び場の選択肢に挙げられる世田谷美術館「缶バッジは美術館の敷居を下げる」

そうした中、世田谷美術館では缶バッジを活用して、地域の子ども達を引きつけるワークショップイベントを定期的に開催していると東谷さんは話します。

「世田谷美術館は世田谷区内すべての小学生を招待しているので、当館に興味を持って再び足を運んでくれる子ども達が本当に多いんです。その際、展示会を見るだけでなく、何か楽しいことを体験して頂きたいと、缶バッジを始めとした様々なワークショップを開催してきたんですよ」

「そうすると親子連れの来館者が増えてきて、事前予約制で丸一日かけて行う本格的なワークショップの参加者も増えてきました。これまでは親御さんが事前予約して子どもに参加させるケースが多かったのですが、次第に子ども達が自発的に当館を訪れることが増えてきたんです」

「ただ事前予約制ですと、当日ふらっと当館を訪れてくれた子ども達が参加できるアクティビティがなかったので、その場でできる缶バッジの100円ワークショップを始めたんです。こんなふうに臨機応変に対応できるのが缶バッジの強みですね」

「そうした取り組みを続けていると、今では子ども達だけで当館を訪れて缶バッジを作って帰るようになり、子ども達の遊び場所に『世田谷美術館』が挙がるようになってきたんです。缶バッジが突破口になったんです。つまり、缶バッジが美術館の敷居を下げたとも言えますね」



興味深いことに、こうした缶バッジなどのワークショップの考案をしているのは前述の美術館ボランティアなのだそうで、そう考えれば、世田谷美術館は地域住民の能動的な活動によって運営が下支えされているという見方もできるかもしれません。

インタビューの最後に東谷さんはこう話していました。

「100円ワークショップで缶バッジを作って楽しんでいる子ども達が果たしてその後、美術に興味を持つのかどうか、それは私には分かりません。でも、それで良いのだと思います」

「それは美術館が美術作品を見るためだけの場所ではないと思うからです。ただ美術館に遊びに来る、日々の生活の一部に美術館がある、それだけで良いとも思います。きっとこれからの美術館は、それくらいの距離感がちょうど良いのかもしれません」


地元住民が集う砧公園に溶け込んでいる、世田谷美術館。「芸術を見るぞ」と意気込むのではなく、美術館が日常生活の中に当たり前にあるという、距離感が大切。

人口減少や経済縮小などによって社会が激変する現代において、既存のあらゆる施設が、その社会的役割を再考する時代が到来しており、美術館もまたその一つだと言えます。

そうした中、地域住民の参加と教育普及に取り組む世田谷美術館の活動に関するお話を伺っていると、「美術品を見に行くお堅い場所」という従来の美術館のイメージが大きく覆りました。

また今日も、世田谷の子ども達が缶バッジを作りに、世田谷美術館に足を運んでいる姿が目に浮かびます。