京都大学総長の山極 壽一(やまぎわ じゅいち)さんは、かつてゴリラの研究のためにアフリカで現地人との人間関係を構築した経験から、グローバル人材を育成する上で一番重要なのは語学力ではなく「相手を感動させる能力」だと述べました。
言語力はさておき、自分の伝えたいことをきちんと伝えられ、相手に京都で言うところの「おもろい」を感じてもらうのが大事とのこと。
しかし、日本人はこの「伝える」ということにおいて、つい怠けて暮らしがちのようです。
というのも、「空気を読む」「行間を読む」ということが無意識のうちに期待されている日本社会では、意図が伝わったかどうかは相手の理解に求められているため、伝わらなかった場合に伝える側が責任を感じずに済んでしまいます。
しかし、グローバルなコミュニケーションにおいて、相手に暗黙の了解が成り立つような文化的背景はありませんし、言葉の“裏”や“間”にまで理解を求めることはできません。
ゆえに、グローバルな対話の場では言いたいことが伝わらなかった場合、伝える側に責任があるということになります。
グローバル社会では何を置いても「伝えようとする努力」が不可欠なのです。
「伝える」努力をしようと考えた時、最も早く伝わり、同時に長く記憶に残すには、視覚に訴えることがベストなのだそうです。
私たちはものごとを理解をするのに五感からの情報を使いますが、五感はバランスよく人の判断に影響を与えるわけではなく、「一目惚れ」が起こるように、視覚的情報が一早く到達して判断に最も大きな影響を与えます。
また、記憶に及ぼす影響力においても、耳から聞いた情報は3日後にその内容の10%しか頭に残っていなかったのに対し、同じ情報をイラストで見た場合は35%覚えていたというリサーチ結果があるそうです。
そう考えると、シンプルに視覚に訴えることができる缶バッジはこれからますます国境問わず、「おもろい」と相手に思わせるツールとして活用の幅を広げていきそうです。
改めて、「伝わる」前提を放棄してお店の棚を眺めてみると、隣り合う商品パッケージには似たような売り文句が散りばめられており、確かに、企業側が膨大な情報を投げかけてきて、こちらの読解力に頼っているようにも感じられます。
一方で、伝えたいことをほんの一言二言で、あるいは画像やイラストで表現しなければならない缶バッジの場合、伝える側があらかじめ情報を厳選するしかありません。
缶バッジの小さな土台は、たくさんの余分な情報を削ぎ落とし、シンプルにダイレクトに「伝える」技術を必要とします。
実際、静岡に障がいを持つアーティストとともに缶バッジアートの制作・販売を行っている団体があり、そちらでは、バッジと英語を用いて、世界にバッジアートの作品を発信しています。
「バッジアートに魅力があれば、リピーターが生まれる。そうしてバッジアートの市場が生まれれば、ビジネスになる」
まずは“バッジアート”を好きになってくれるファンを増やすため、障がいに関する情報を後出しにする。
そうして見た人に「これすごく良いなあ。誰が作ったんだろう。あ、障がい者の方が作ったんだ」と思われるよう、“福祉”を相手の意識に植え付けずに作品の良さを伝える努力をしています。
ブラジルでは猿が「石器時代」に入ったというような報告もありますが、人はというと、言葉を持ってから脳の成長が止まってしまい、今では12,000年前の人類の脳と比べて10%も小さくなっているという説もあるそうです。
人々は、自分の欲しい情報だけを取りこみ、対話が苦手になりつつあります。このままでは他人のことなどどうでもいいとなってしまう現代社会に面し、前出の京都大学の山極総長は、相手の立場に立って物事を考える努力の重要性を説いています。
まずは相手が日本人ではないことを想定して、缶バッジ上で「伝える」努力を始めてみるのはいかがでしょうか。
缶バッジをきっかけに、視覚的に伝える、よりシンプルに伝えるという、言語力に頼り切らずに人の心を動かす、グローバルなコミュニケーションのコツが掴めるかもしれません。
結局、ビジネスがうまくいかずに苦しいとき、支えになるのは「おもろい」と期待してくれるファンの人たちの存在です。
缶バッジで始める国境を超えたファンづくりにより、困難に倒れないための支えはより太く頑丈になっていくはずです。