一昔前は、精神病になる人というのは、ほとんどいませんでした。
しかし、テクノロジーの普及で良くも悪くも、様々な情報にアクセスできるようになったり、日々もの凄いスピードで変わっていくライフスタイルの変化によって、自身のアイデンティティを失い、精神病にかかる人たちがどんどん増えています。
特にフェイスブックやインスタグラムなどのSNSは、他人の幸福な日常ばかりが映し出されていると言えるでしょう。
「こんなところに旅行に行った。」、「週末は、友達とこんな美味しいものを食べた」など、幸福を感じたエピソードはどんどんSNSに投稿されますが、「仕事が全然面白くない。」、「最近、妻との関係が上手くいっていない」などといったエピソードはほとんどSNSには投稿されないのです。
イーロン・マスクは、SNS、特にインスタグラムは人々を不幸にしていると指摘しました。
自身の生活の中の「光」だけを切り取り、さらに、それにフィルターや加工が加えられていきます。
ユーザーは無意識のうちに「いいね!」を押しますが、次第に他人の眩し過ぎる日常と自身の生活とのギャップが徐々に苦痛になっていってしまうのです。
幸福度に関する調査によれば、音楽、ダンス、絵画など、美しいものを鑑賞すること自体は、幸福度を上げることには繋がらないのだと言います。
逆に、文章でも、アートでも、音楽でも、自ら美しいものを創造している人の幸福度は高い傾向になるのだと言う。
そういった意味では、失われたアイデンティティを取り戻す一番簡単な方法は、文章、アート、そして、音楽など、自らが表現者になっていくことなのでしょう。
99%の人は、様々な方法で情報を仕入れ、仕入れた情報を元に自身の魂を形成していきますが、自身のアイデンティティを高め、自由に生きるためには、この逆のことをしなければならないのです。
つまり、まずは自分の心の中に理想とするビジョンを描き、それを様々な形で世の中に表現し続けていける人こそが、精神的に自由であり続けられる人なのでしょう。
最近では、様々な形で芸術を表現し、それを缶バッジにして持ち歩く人たちが増えています。
SNS上で自身のフォロワーを集めるのは大変ですが、缶バッジにして街を歩けば、すれ違う全員があなたの芸術のフォロワーになっていくことでしょう。
誰かをフォローするのではなく、自分のフォロワーを増やしていく。オンライン上のフィルターだらけの世界から抜け出すためには、自ら表現者になるしかないのです。
AIが普及すればするほど、本物の作家や芸術家が増えていく。
夕張市では2007年に財政破綻し、突然、市内の病床数が約1/10に減ってしまいました。
当然、適切な医療が受けられなくなったことで、病院が一気に増えることが予想されましたが、病院が無くなったことで逆に病人が少なくなったのだと言います。
もしかすると、インターネットやSNSもこれと同じことなのかもしれません。
多くの人は、インターネットやSNS上のどこかに宝物が埋まっていると、ずっとPCやスマホの中を覗き込んでいます。
しかし、実際は、インターネットやSNSに使う時間をできるだけ減らし、自分で何かを表現する側に立てば、自然と精神病などというものは無くなっていくのでしょう。
むしろ、テクノロジーが発展すればするほど、様々な分野での表現者は増えていかなければなりません。
例えば、ChatGPTが日常的な「文字」を自動で書いてくれることによって、人間は本当の意味での「文章」を書く表現者として作家になることができます。
AIはイラストや絵を自動的に作り出すことができるのかもしれませんが、本当の意味での「芸術」は人間にしか生み出すことはできません。
良い芸術を生み出すためには、そもそも生き方そのものが芸術的でなければならないのでしょう。
起業家にしても、政治家にしても、科学者にしても、歴史に名を残した人というには、残した功績以上に、生き方そのものが芸術的だったからこそ、亡くなった後も、様々な形で名前が残り続けているのだと言えます。
ある意味これまでの時代というのは、一歩先を行くアメリカという国があり、先を行く国がある程度のヒントや答えを提供してくれたため、答えを求めてまっすぐゴールに進んでいけば良い時代でした。
しかし、日本も成熟した先進国になり、世界がイノベーションのジレンマに陥っていく中で、21世紀は間違いなく「明確な答え」が存在しない時代なのだと言えるでしょう。
明確な答えが存在しない時代は、自ら表現者になり、自分なりの答えを自ら導き出していくことが求められます。
本当の意味での芸術とは、「答えのないもの」への不断の挑戦なのだと言われます。
村上春樹の小説、宮崎駿の映画、ボブ・ディランの歌など、優れた芸術と言われるものは、すぐに分かりやすい答えを与えてはくれません。
今年の夏に公開された宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」は、まさにタイトルの通り、答えのない21世紀の世界に対して、自らが表現者となって、どう生きるかという部分が問われているのでしょう。
オンラインやSNS上にあるものは、他の表現者が既にアウトプットした抜け殻のようなものに過ぎません。
絵、文章、そして、写真など、どのような表現をするにしても、何も制約がないところから始めて、結局何のアウトプットもできずに終わってしまいます。
まずは、ツイッターの制限文字数を埋める、缶バッジの円の中を埋める、iPhoneで撮った動画だけ動画をスタートしてみるなど、とにかく小さい成功体験を重ねていくことが、表現者としての自信をつけていく確実な方法なのでしょう。
缶バッジの表面を埋め続けることが、偉大な表現者になる第一歩なのかもしれません。