発展途上国からの留学生は、自転車のパンクなど、モノを自分で修理しようとしない日本人同級生の姿勢を不思議に感じるそうです。
修理を頼んだ方が間違いないということもあるでしょうが、手頃なサービスを受けられる社会であるが故に、日本の人々がモノの仕組みに興味を持ったり、モノを扱うスキルを身につけたりする機会が失われつつあるのかもしれません。
同様に、水道の水漏れはどのように直すのか、ほつれたボタンはどのように直すのかなどを常識として知っている人は、少数派になりつつあるようです。
缶バッジにおいてもメタリックな印象が強いためか、缶バッジをつくる過程で「缶バッジの中に紙が入っていたのか」と驚く人は少なくありません。
缶バッジをつくるワークショップで、人々に缶バッジをつくる材料や機械の仕組みを伝えていると、モノが生まれるまでの過程に触れる体験はより貴重になってきていると感じます。
それは機械でつくるモノに限らず、例えば農業では、野菜を栽培するために土を耕す体験をした人々が「土ってあったかいんですね」と、そこで生まれて初めて気づいたというようにこぼすことは珍しくないそうです。
缶バッジには紙が使われている、畑の土はあたたかい…このように何かがわかる体験をすると、それを機に脳は自ら動き出し、なぜ紙なのか、なぜあたたかいのかと予想を膨らませ、物語をつくろうとします。
「過去があるから今の自分がある」言い古されたセリフですが、事実、私たちの脳はバラバラな情報をうまく組み合わせて物語をつくり、未来を予想したり、意味を理解しようとします。
状況を読んで謎を解くゲームに人々が熱中するのも、ものを語りたがる脳の性質に因るものと言えるでしょう。
例えば、ヒットゲームの元祖「スーパーマリオ」では、スタート画面でマリオが何故か横顔の状態で登場します。
そこでふとプレイヤーの脳内では「右に行くのかな?」という予想が生まれ、これによってゲームの物語がスタートするのです。
一般的に扉にはドアノブがありますが、もしドアノブのない扉を目の前にしたら、私たちはどのように反応するでしょうか?
きっと、まずは押してみるのではないかと思います。
このように目の前の情報から予想をし、それを実行して確かめ、そして予想が当たる体験を与えることが、ゲームやウェブサイトなどを含め、デザインの世界ではとても重要になっているそうです。
缶バッジづくりのワークショップに人が集まる理由を考えると、「ドアをまずは押してみる」と同じくらいに、やり方を予想して進めたくなる仕組みになっていることに気づきます。
最初に参加者は缶バッジの丸を型どった紙が渡されますが、枠内はキャラクターなどの塗り絵になっていたりして、描く作業が簡単になっていることが多いようです。
ちなみに『塗り絵』はもともと19世紀に「子どものしつけに役立つ」と大ブームを起こした遊びアイテムで、模範的な行動やルールがデザインされていたそうです。言い換えれば塗り絵にはそのくらい簡単に人を動かす性質があるということになります。
さて、絵が仕上がればそれを丸の線でカットし、マシンを用いて他のパーツと組み合わせていく作業に入ります。
マシンの丸く凹んでいる所を見た瞬間「ここに置くのだろうな」とほぼ間違いなく予想ができるため、実行において気をつける必要があるのはパーツを置く順番くらいです。
心理学では、缶バッジマシンにある凹みのような手がかりをシグニファイアと呼びますが、こうした手がかりに気付けなければ「凹みに置く」というような予想も、そしてそれが正解だった時の快感も生まれることはありません。
ゲームの世界で手がかりを回収するように、実生活においても一つでも多くの手がかりに気づくことができれば、そこから予想をして当てる喜びは増えますから、何かにつけ人に頼むのはもったいないとさえ感じるようになるでしょう。
モノづくりを体験して手がかりを多く知る機会が、小さいうちからもっと身近で得られる社会になったらいいと思います。
なぜマリオは右を向いているのか、と同じように、なぜ服のボタンには穴があるのか、といった日常にあるモノの仕組みを考えることができるようになれば、ゲームでレベルアップするように私たちは日々の暮らしを楽しめるような気がします。
モノがなかった戦後の日本人を思えば、もしかしたら日常のモノの修理のようなところから、一人一人が自分で乗り越えて成長する経験が全体としての進歩に欠かせないのかもしれません。
モノの仕組みは実際よりも複雑に思われがちですが、シンプルでわかりやすい缶バッジづくりそのものが自分でできることに、多くの人が気づく手がかりになればと思います。